希望の詩






















「…まだやってたの?」
と言った後、相手は少しだけ考えて
「いや、『もう』か」
と言い直した。
肌寒さの気配を感じ始める季節、小さなおでん屋は変わらずそこにあった。
「まだ暑いっていうのに…物好きだね」
「暑い日に喰うおでんが最高だって言ったのはどこのどなたでしたかね」
日曜日の昼過ぎ、秋が自己主張をしやすい時間帯。いつもとは違う私服の相手が、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
随分抜けた表情をするようになったもんだな、と彼は思う。思いながら、煙草に火を点ける。
「昼間っから屋台出してる方がどうかしてるだろ」
「そこにわざわざ休みの日に寄るか?」
「……」
苦いものを噛んだような顔の前を、きっちり仕込んだおでんの湯気がかすめる。
こんなやりとりを初夏からしていた。もう一人の常連客が居る時にしか顔を出さなかった頃に比べたら、だいぶ 打ち解けたと言えるだろうか?と、彼は少年のような考えをしてみる。
「食ってけば」
「暑いから、嫌だ」
歳不相応な我儘に笑いを堪える。
「じゃあ何しに来たのよ」
「伝言」
あんた携帯使えないだろ、電話にも出れないで、とちくりと仕返しをされて、彼は肩をすくめた。
「今日は8時だって」
「えー?稼ぎ時じゃないの」
「暇だろ。じゃ」
あっさりと流されて、相手の姿はのれんの外に消えた。
「ちょっとぉ」
身を乗り出して叫んでも振り返らなかったが、我慢できないように相手の肩が震えているのが見えて彼は満足する。
「8時、ね」
確認するように呟いた彼は、少しばかりずれている椅子の位置を元に戻しながら、歌を作ってみたんだけど、と、なぜかとても言いづらそうに先ほどの客が言ったことを思い出した。
あれはいつだったろうか。
「いいんじゃないの、歌えば」
「俺じゃなくて」
言いづらいのではなく、うまく言えないだけらしい…と彼はすぐに気づいたが、何故自分にそんな提案がされたのか よくわからなかった。自分が歌ったところで何か面白いことが起こるだろうか?
「俺も賛成だなあ、それ」
いつものように軽く…ただ、瞳に強い力を持って、もう一人の相手もギターを一つ鳴らしていた。
はぁ、まぁ、考えとくけど…物好きだね、とだけ彼は返しておいた。
「あれ…同じこと言い合ってんな」
物好きはお互い様、類は友を呼ぶってか…布巾を作業台の上に滑らせながら彼は笑った。


「それさあ、どっかで聞いたことがあるんだよな」
桜井が悔しそうに呟いた。
「ん」
坂崎はさして気にするでもなく、再びギターをつま弾く。
「俺らの歌じゃないだろ?」
「うーん」
「てことはやっぱり昔の歌か?」
「どうかな」
「どうかなって」
桜井は眉根を寄せて見るが、坂崎の方はやはりするりとかわした。
「思い出せないなあ…」
懐かしそうに目を細めながら、桜井はまだ言っている。
「高見沢も同じこと言ってた」
「へぇ」
坂崎はさすがに反応して小さく頷いた。
「珍しい」
「いい加減教えてよ。なんなのよ、それ」
「これに合わせて歌えば思い出すんじゃない?」
「遠慮します」
やめろと言われても続く演奏会に付き合わされるのはたまらない。桜井は早々に退散しながら、
「…まーたはぐらかされた」
ため息を一つついた。どこか引っかかって取れないものが、春先からずっと残っている。
「嫌な感じはしないけど」
長い時間の中で、化石のように埋もれた思い出が、かすかに光っているのだろう。坂崎が何故それを言いたがらないのかは わからないが、どうやら共通して皆の中にあるもののようだ。
それはどこか暗号のようで、面白い…と彼は思っているのだった。


まだ屋台の電燈は暑苦しいなあ、と通りすがりの声がしたが、 彼はさして気にするでもなく、金バケツに腰掛けていた。
歌を歌うのは好きだった。それを思い出したのはつい最近である。
たいていは、顔なじみになった客がうるさいほど弾いてくれるので気にならなかったが、 全く音のない夜もある。夜になると復活してくる夏の蒸し暑さの中、ここに寄ろうという奇特な客はあの二人くらいなものなのだ。
彼は橙の光の中で好きな歌を歌う。
誰もいない時はそうしていた。
煙草の煙と一緒に声が宵闇に溶けていく。若い頃に友人と歌った歌、最近の流行でこっそり気に入っているもの、子供の頃に帰り道に歌った童謡… 思うままに歌っていった。
音が出ないラジオを付けて放置することはなくなっていた。
「……あ」
何かが視界の隅で動いた。それが人だと気付いて、全く反応の出来なかった彼は、しばらく新しい客を見つめてしまった。歌は中途半端な所で途切れ、地面に落ちる。
「……悪いね、気づかなくて」
いつから立っていたのか、正面の青年は、気にしていないというように首だけで会釈を返した。
「何にするかい」
歌を聞かれていたらしい。彼は照れ隠しに手を一つ叩いた。
相手は「これでもらえるくらい」と言葉少なく言って、500円札を差し出した。
暑そうに頬を上気させて、ビニール袋一杯に詰まったおでんを下げて帰っていく薄い背中を眺め、彼はどこか嬉しい気持ちになった。


「……なんだその量は…」
桜井が呻くように言った。汁があふれて床を汚しそうなほどビニール袋が張っていて、あからさまに危険だった。
「でも、美味そう」
坂崎がこぼさないようにそれを受け取って中を覗き込んだ。
「まだ熱いね。近くに屋台あったっけ?」
「…さっき、そこで」
「ふーん。なんかお前、息切れてない?走ったの?」
「いや……少し」
「何やってんの」
可笑しそうに近くで坂崎が言った。
「部屋出たらちくわ落ちてんじゃないの」
「落ちてねー」
「さ、食おうか」
「からしあったっけ?」
「賞味期限怪しいのならあったよ」
「なんで人んちの冷蔵庫の中身知ってんだよ」
「知られたくなきゃ人に留守番頼むな」
「あ、あった…うわ、賞味期限消えてるぞ、これ!」
坂崎が笑いながら桜井にからしを放った。
「食える食える」
桜井も難なく受け取る。
まだ身体を火照らせてぼんやりと突っ立っていた彼も巻き込まれた。
「何してんの、ほら」
「……あ、いや、うん」
彼は無駄にうんうんと何度も頷いて進んだ。
引き寄せられた、橙に溶ける柔らかい声は、自分の友人の歌を改めて聞いた時のことを思い出させた。 早くここに戻りたくて、気づいたら走っていた。
まさかホントにちくわ落としてたりして……と彼は一瞬考える。一度も振り返らなかった。だが、
「おー!美味い!」
ささやかな心配はそれこそ一瞬で消え去った。渋い飴色の大根が格別に美味い。
「いいなあ、これ。こんな美味い店あったんだな。知らなかった」
「知らなかったな」
高見沢はもう一つの意味も含んで返し、続けた。
「でさ、あのさ、――の、あれ歌ってみない?」
「え!?なんだっけそれ」
すっかり酔った桜井が素っ頓狂な声を上げる。隣で坂崎が「古いなあ」と驚いた。
「歌ってたの誰だっけ」
「忘れたけど。でもいい歌だろ」
「珍しいじゃない。どっから引っ張ってきたの」
「なんとなく」
30年以上も前に流行ったらしいその歌を彼らは知らない。だが、ぶつぶつと途切れる音の入るレコードのイメージの中での 想像でしかなかったのが、今夜いきなり色を持って迫って来た。
そんな風に時を越えてどこまでも繋がる声があるのだ。


「…あ、どうも。この前言ってたやつだけど、歌ってみてもいいかな。……うん、じゃ8時に」
新しい客が帰った後、なんとか電話をかけるレベルまでには達したスキルを使って――その自慢もそこそこに――彼は新しい友人に応えていた。


「よろしく」
高見沢が打ち合わせ後に付け加えた。
「そういや、この前、赤提灯見た」
坂崎の顔を見て思い出したようだった。
「このあっついのにさ。でも、楽しそうだったよ。2〜3人で懐かしい歌歌ってたな」
「どんな?」
「忘れたけど」
「へぇ」
「意外といいもんだね」
「混ざればよかったのに」
少しだけ気を緩めたような顔をして、高見沢は戻っていった。
途切れたような会話だったが、坂崎は満足そうに一つ、笑った。


「おやっさーん、こんばんは」
「なに、まだ早いんじゃないの」
「迎えに来ました」
にか、と笑った顔の後ろに、もう一人も立っていた。
「結局やってたの?昼過ぎにはもう店じまいしそうだったのに」
「俺たち以外に客来るの?」
2人は風化した荷物を抱えて茶化す。
「もちろん来るよ」
「ホントか?」
「ホントですよ」
「あっ、でもおでんが少ない!」
「自分で食べたんじゃないの」
「こら!」
片付けの手を止めた彼は、いいお客さんがいてね、何人分も買ってったのよ。だから今日はもう店じまい、差し入れもなし! ぴしゃりと言ってのけた。
「物好きな奴もいるよな。この暑いのに何人分もなんて」
「あなたみたいな人じゃないの」
「俺はわざわざ持ち帰りません」
うはは、と笑う声が屋台の中に反射する。


「風が冷たくなったね」
坂崎がアパートの窓を開けながら言った。
「酔い覚ましには丁度いいかも」
「お前も覚ませ」
高見沢は、絡んで管をまく桜井をひきはがし、狭い窓の前へ無理やり連れていく。
「ちょっと、俺に任せんの?」
「だって俺もう疲れたもん」
テーブルにぐったりともたれかかった高見沢を桜井の頭越しに見て、坂崎はため息をつく。
「おー、すずしー」
呂律の回らない桜井も秋風に反応した。
アパートの窓の下を、影が三つ、にぎやかに通って行くのが見えた。


「おやっさんさあ、いつまでやるの?あの店」
秋の薄暗さの中で足音が反射する。いよいよ移動というところであまり背の高くない方の相方が問うた。今日の練習場所は彼の家らしい。
「さてねえ。いつまでだろうね。でもしばらくはやめられんね」
しがない屋台の店主ですがね。ここからでも何か出来そうな気がするから――とは、言わないでおいた。 あまりにも青臭く聞こえそうだった。
「あんたたちのような客がいるからね」
店主は含み笑いをして答えたが、二人は、「なんなのそれ」と苦笑しただけだった。
彼は本当は知っている。自分の店の向いの公園で、ずっとぼんやりと座り込んでいた影も、 のれんをくぐれずに立ち止まっていたスーツの足も。
そして。
新しい客の、つっ立ったままの大きな瞳から涙がひとすじ流れていたことも。


「俺はもうお手上げだな」
高見沢は、桜井がそう言っても諦められない様子でいた。
「博士には勝てないよ」
「……やだ」
「やだって、お前さあ…」
さっき坂崎と話してた時は悔しそうな素振りすら見せなかった癖に…心中毒づきながら、桜井は相手をなだめた。
「いいじゃない。思い出せないってことは確かにそれがあったことの証明にはなるでしょ」
「……」
高見沢はいまだ不機嫌そうに桜井を睨んでいる。
「……何」
「……お前に説教されるとムカつく」
「そっちかこのやろう」
思い出せないことはわかっていても、宝箱をひっくりかえして、本当に宝物があることを確かめたくなる 時があるのだ。
もう形としては残っていないと薄々気づいていたとしても。
「俺が思い出すまでお前、思い出すなよ」
「どんな命令だよ、そりゃ」
困ったような顔をする桜井の向こうで、関係ない顔をして趣味に興じている坂崎もそれを知っているはずなのだ。
「いいから。これ早く覚えて。出来たから」
なによ、もう、タカミーったら勝手!短い休憩を終えて、笑いに包まれながら戻ろうとする桜井に、彼は新しい譜面を渡した。
譜面は小さな笑みで受け取られた。


「なあ、あの歌――あれ」
窓から顔を戻した坂崎が見たのは、テーブルに伏せている高見沢だった。
「なんだよ、もう」
いい風だと呟いていた桜井も、案の定すぐにずり落ちてそのまま眠ってしまった。
「しょーがねーなあ」
たいして気にかけるでもなく、坂崎は窓を閉める。高見沢の背中にあるギターをゆっくり手に取って、 ついさっき彼が言っていた昔の歌のコードをさらってみる。
「…こんな感じかなあ」
簡単な響きで構成されている曲は、ものの数分でそれらしい音を取ることができたが、不思議な温かさを持って いつまでも鳴っていくようだった。
「うん。やっぱりこれ、桜井だな」
その音は、すっかり寝入っている二人にも静かに沁み込んでいくように響いていた。そしてそれは、
「…いつか、……」
数分後には同じようにうたた寝する彼にも沁みていった。




秋がはじまろうとしている。
いっそう風化した荷物を、個々に抱えながら。









"albireo" track06.「希望の詩」(the end.)
text by : Hiroto Kaizaki(from Squall On The Horizon)
image from : 『希望の詩』(by THE ALFEE)
photo by : 水珠

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