戦場のギタリスト




















明るい光がいやに目につく。
夜なのだから、夜らしく、目の前を塞ぐほど暗闇であればいいのに。
「まぶしいんだよ」
もう、今はほとんど使うことのなくなった言葉回しで一人ごちる。 その音は必要以上に子供っぽく聞こえて、彼をいらだたせた。 半世紀近くも生きて、未だ自分の中身はこれなのだ、だからこそこんな、こんなことにすら腹が立つのだ。 自分の帰り道にいつしか出されるようになった屋台、その橙色の光を振りまく姿。
嫌な暑さすら感じる。
彼は冷たくこわばらせた横顔に風を受けて、そちらをにらみつけた。
こぼれてくる懐かしい歌、湯気、陽気な笑い声。一瞬彼は顔をそむける。 屋台には壁などないのに、そして自分はその中へ入ろうとしてもいないのに、ひどく拒絶されたような気持ちになってしまう。 のれんのすきまからこぼれる空気が彼を沈めさせ、嫌でもくたびれかけたスーツが目に入る。 追い打ちをかけるように、最近常連になったらしい聞きなれた笑い声がのしかかった。
そこまで寒くもなくなったな。
無理矢理そう考えて、いつの間にか立ち止まっていた彼は再び歩き出した。足がやたらと重い。風邪をひいただろうか。
3月の風は生ぬるい。だからこそ、迷う。


「やべ…寝てた」
開かない目を力の限りこすりながら、高見沢は起き上がった。
もうだいぶ暖かくなってきた。あれほど欲しいと思っていた暖房器具ももう必要なさそうだ。 だけどまだ夜は寒いな…足はこたつに入れながら腕をさする高見沢は、額にこたつの縁の痕がしっかり ついていることに気づいていない。
「…よいしょ」
手探りで部屋の電気をつける。紐ひとつ引くのも寝起きには結構な運動である。古びた蛍光灯もたった今目覚めた と言わんばかりに鈍く瞬いた。
そして照らされた中に二人の姿はなかった。高見沢は拗ねたような、腹を立てたような複雑な表情を 浮かべる。
「どこ行ったあいつら?」
書置きもなかった。戻ってくる気ではいるのか、坂崎のマフラーが畳の上に置かれていた。
高見沢はしばらく、それを見たり時計を見たりしていたが、時計の音が耳について離れなくなったと 同時に腰を上げた。


「いらっしゃい」
その声に気づいた時にはもう遅く、彼はいつの間にかのれんをくぐっていた。
家に向けていたはずの足は今、橙色の中にあった。
笑い声も音も全て消え、目が四つ自分を見ている。いつもはそれらをすり抜けていたはずなのに、 今日はなぜか引き込まれてしまったらしかった。
ぷつり、とその中の空気が途切れたのを感じ、彼は早くも後悔する。
「なんにします」
「…いや、覗いてみただけだから」
悪いねと低く呟いて視線を落とし、出て行こうとすると、
「手伝ってもらえませんかね」
店内のたった一人の客が、言った。
「……は」
その言葉を拾った店主が、何の感動もなく付け足す。
「この時期になってくるとね、これらが捌けなくなってくるもんで」
電球と同じ橙の汁に浸かっているおでんが号泣している。
「ここんとこいつもなんですよ。客減ってるんだから作る量減らせって言ってるのに減らさないから。 おかげでちょっと太ったよ、おやっさん」
「酒とつまみの目方が狂っちまってるんだからしょうがないだろうよ」
「この歳で太るってどういうことかわかってる?シャレにならないでしょ」
困惑して一人しかいない客と店主のやりとりを聞いていた彼は、
「まあ、座って」
無理矢理その客に引っ張られて座る羽目になった。
「いや、でも」
「もう春だけど、オツなもんでしょ」
客がにっかと笑いながら言葉で引き留めた。あまりの平和さに断れない彼が 視線を彷徨わすと、相手の向こうにギターのハードケースが見えた。
「…それ…」
いい気なもんだ…そう思う前に相手がすばやく反応する。
「あ、これ?これはね」
「お客さん、やめたほうがいいって。その話したら帰してもらえませんよ」
「え?」
「もう遅いよ」
ケースの封印が解かれると、なんの変哲もない、古いアコースティックギターが現れた。 だがそれを見た彼は、この客とどこかで会ったことがあるような気がした。
「そうねー、ここくらいかな」
呟くように乗せられた歌は、30年も前に流行った曲だった。
駄目だこりゃ、と店主が苦笑いで流したのを横目で見ながら、彼は爪弾かれた曲に 言い知れない懐かしさを感じた。
「あっ、顔変わった!やっぱり同世代だね」
客が嬉しそうに自分の顔を眺めるのを彼は不思議な気持ちで見返す。
「眉間の皺が取れたよ」
ぎょっとして額のあたりに手をやる彼に、店主も短く笑った。同時に、コップ酒が目の前に置かれる。
「なんにします」
「あ……大根」
「はいよ」
「ひとつで」
「はい」
酒にしろつまみにしろ、こぼさないようにしないとスーツに浸みができてしまう。
そんな面倒なことを考えながら波の立つ煮汁をぼんやり眺めていると、隣がまた小さく呟いた。 それはのれんの外で聞いていた愉快そうな笑い声と同じだったが、ひどく冷たく無機質に呟かれたように思えた。
「先生?」
がたっ、と自分の椅子が鳴った。
「当たった」
まるで自嘲するような笑いを、声と同じ小ささでひとつ。
「どこにいたって戦いだね」
相手が小柄であることに彼は初めて気づいた。
「……じぶんと」
自分が言ったのか、相手が言ったのか、わからないほど――店主が大根をすくう音に 消されてしまうほど――自然にそれは流れた。
もう伸ばすことのない髪の毛すれすれに、懐かしい風の音が聞こえた気がした。


「あれっ?」
夜道を歩いた帰り、見上げた部屋の電気はついていた。
「なんだよ」
本当にむくれて、高見沢は階段をのぼった。ぎしぎしと足跡に遅れた古い木の音が追いかけてきた。 膝にビニール袋が一度ぶつかった。
「お前らどこ行ってたんだよ」
部屋を開けると同時、中の二人に声を投げる。ぽつぽつと流れていたらしい音色が ふと途切れ、彼を迎え入れた。流行の歌の余韻が静かに置かれた。
「おかえり。探してくれてたの?」
「誰が」
バカ言うな、と高見沢は笑う。桜井が大きなビニール袋をかき回してビールを取り出した。
「買出しだよ買出し。お前、起こしても起きなかったから」
「何にしたの」
「そろそろ食べ納めだし、いいかなと思って」
半分曇った眼鏡の坂崎がギターを再び弾きだした。顎でさしたこたつの上で、土鍋がぐつぐつと返事をしている。
「えー、じゃあこれ買うんじゃなかったな」
「何?」
「おでん。材料かぶってるじゃん」
スーパーのそれとは質の違う袋が持ち上げられた。坂崎が笑う。
「気が合いますねぇ」
「お前と?やだよ」
後ろ手でドアを閉めると、ほら座って、と坂崎が付け加えた。
「あ、悪いけど、俺らもう飲んでたから」
桜井が悪びれなく片手を上げる。力がこもっていなかったので、くにゃりと崩れた。
「見りゃわかる」
高見沢は、ふんと悪態をついて、缶の置かれた指定席に座った。
土鍋の湯気で部屋はすっかり暖まっていた。


「今度ギター持ってきて下さいよ。持ってるでしょ?」
「……なんで」
「あんなに手元見られたら誰だってわかりますよ」
おかしいのを懸命にこらえようとして、相手はギターを抱えたまま俯いている。
「…大学以来だから、そんな、弾けるほどじゃ」
「じゃ、決まりで」
ぴしゃりと言われて、諦める。彼はため息をつきながらも、あれはどこにしまったっけ…とぼんやり考えた。 捨てきれずに、だが見ることも出来ずに部屋の一番奥にあるはずだった。
「大根」
店主の短い言葉につられて目の前のテーブルを見ると、ぶつ切りの大根が 三つ、皿から落ちそうに重なっていた。
彼が目を丸くしてそれと店主を見比べると、店主は何食わぬ顔で酒をあおった。
「これだもん」
隣人が今までの延長のようにとうとう笑い出し、ギターのボディを軽く、何度も殴る。 酒に幸せそうな大きな一息をついた店主が、今度は煙草を吸うのを彼は見た。煙草が一気に短くなる。
「……」
今度は彼が衝動的に笑い出したくなるのを堪える番になった。片手で顔を何度も拭う。
「さ、今度は何をお弾きしましょうかね」
裸電球が、客二人の賑わいを示すように揺れる。できる影が少しだけ過去を連れて来てここに 留まらせようとしている。
「ね、言ったでしょ。最初はいいんですよ。でも段々うるさくなるんです」
「確かに」
堪えすぎて裏返った声も気にせず、彼は相槌を打った。店主が吐き出す煙は、 面倒そうな台詞と裏腹にゆるやかに空気に溶けていく。
「なんて事を。ビートルズ頭から行くよ」
「それは前も聞きました」
「じゃあこっちにする」
「それも前聞いたって」
彼は迷わず、きつく締めていたネクタイを思い切り緩めて箸を割った。









"albireo" track04.「戦場のギタリスト」(to be continued...)
text by : Hiroto Kaizaki(from Squall On The Horizon)
image from : 『戦場のギタリスト』(by THE ALFEE)
photo by : アルフェッカ

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