「あれま」
今となっては懐かしい、橙色の灯を路地の中に見た。
そこからは暖かさと調子外れな歌が気持ちよさそうにこぼれてきて、彼は笑う。
彼はその後ろを何事もないように通り過ぎようとしたが、口許が緩むのは止められずに、 冷えた右手で顔を覆った。

手はすぐに温まった。



(Musician)





秋は終わった。
その前には、春が終わり、夏も終わった。
坂崎は一層風化した荷物を手に、ひとつため息をついた。
そういえば去年も同じマフラーを巻いて、同じ荷物を持ってここに来たのだった、 そしてさらにその前の年も同じことをしたのだ、と坂崎は目線まで同じ場所に立ってそう思う。
公園の夜。
自分の吐き出す息だけで、濃紺を白夜に変えてしまえそうなくらいに寒くなっていた。
公園には、ベンチと細長い木がひとつずつ。
ベンチは最近白く色を塗り替えられた。
木は最近、枯れた。
「……」
別にね、と坂崎は誰に言うわけでもなく呟く。
これが最期の姿なのか、それとも春になればまた目を覚ますのか、坂崎には判らなかった。
とりあえずいつものようにその細い幹に触れて、根元に座り込む。
まだ雪は降らない。
彼の隣の荷物は、たいした温かみもないが主張が激しい。彼にはそれが、なによりの温もりだった。
荷物…正確には、荷物のケースに、留め具がふたつ。彼はそのひとつひとつに手をかけて、丁寧にはずした。 毎日触れるこの留め具は、彼をいちどきに、 いま から遠ざける。
「…寒」
坂崎はマフラーに首を沈める。彼がいま から遠ざかりたがっているように、冬の目覚めの夜も同じく、 彼を遠ざけようとしているらしい。
彼は眼鏡の奥から風を覗いた。
疎ましがるような表情を瞳に絡ませ、あきらめたようにうつむいた。
興味を持とうが持つまいが、相手が動かないことだってあるのだ。 動きすぎて自分がさらってもらえないことも、あるのだ。
ケースを開いて手に取った安いアコースティック・ギターをいつものように抱えて、 そのボディをひとなでする。
安いっていったって、それはあの世界から見た話だ。
唇の端に薄い笑いを浮かべて、また撫でる。ギターはこの温度に適応してしまって、 彼には冷たい。
それに怒りに似た諦めを感じることも諦めてしまった自分に気づいて、彼は本当に笑った。
少し遠くに、屋台の光が見えた。
ギターのボディと同じ飴色の熱量を放つその空間が、とても懐かしく恋しいものに思えた。
その近くを人が行き交う。気分をよくしたサラリーマンや素面の若者が、幾度もその光を遮った。 さして高くもないヒールが鳴る、楽しそうに鳴る。合わせて手がいくつも打ち鳴らされる。 その後ろを通り過ぎるきっちりとしめたネクタイは、 きっと、酒を飲み交わす余裕も――気持ちの余裕もなく、その背広の肩はやけに冷たい。
「なにが、きっと、だ」
年甲斐なく子供のように呟いた。
余裕がないのはお前もおんなじだろう。
弦が錆びて、痛い。
彼はなにごとも起こっていないかのようにギターを爪弾き続けた。
冷たい背広はすぐに視界から消える。
投げ出した足を身体のほうに少しだけ寄せて、坂崎はギターを強く握る。
たくさんの曲を知って、何度も歌ってくれた これ を、今でも持ち続けている。
陽気な歌が聞こえる。
手拍子に合わせて歌う歌が、屋台からあふれてくる。相当大きい声なのだろう、通る人が驚いて 屋台を振り向くほどだ。
彼はくすりと笑って、いつの間にかその歌に自分を合わせていた。
30年以上も前に流行った、懐かしい歌だった。
ああそうだ、と彼はまたひとりごちる。
寒いのを、いつの間にか季節のせいにして、俺はまだここに座っている。

しばらくぼんやりと屋台を眺めていた坂崎は、やっと立ち上がった。
全ての動作を巻き戻すようにギターをしまいこむ。
屋台にはもう人はいない。手拍子も歌も風がさらっていった。
のれんの向こうに見え隠れする店主らしい男が、特に暇を持て余すわけでもなく、だが どこか物足りない風で煙草を吸っているのがわかった。
「…ども」
坂崎がのれんをくぐるのと、店主が煙草を咥えたままため息をついたのはほぼ同時だった。
「…まだやってます?」
「いらっしゃい」
言葉もほとんど同時で、坂崎は苦笑した。つくづくタイミングが合わない。
「…大根」
「はい」
「二つ」
「はいよ」
さっきまで人が座っていたはずなのに、木で出来た大雑把な椅子は冷たかった。 坂崎は店主の正面には座らず、少しだけ端に寄った。テーブルにギターを立てかけておくためだ。
「……」
ギターケースは慣れない置き方に居心地悪そうに、ずる、という音を一度立てただけでおとなしくなった。
店主はそんな坂崎の様子を気にするでもなく、目の前に皿を置いた。
「…酒は、ちょっと」
気分が乗らない彼の前に出された、曇り気味のコップを見て断ると、店主はおどけたように返してきた。
「あたしが飲むんですよ」
「…コップ二つ使って?」
さりげなく出てきたもう一つを指して坂崎が吹き出しかけて言うと、
「黙って見てるのは面白くないんでね」
「一つでいいでしょ」
「じゃあお客さん、片方使ってくださいよ」
なんだそりゃ、と言って坂崎は声を出して笑った。
「じゃあ一口だけいただきましょうかね」
「はいよ」
酒にしたら「ぽとり」というくらいの量が注がれたとき、坂崎は、この屋台がいつも暖かい理由が わかった気がした。その代わり、店主のコップにはなみなみと酒が入っていた。
店主は無言でコップを軽く掲げて飲んだ。坂崎もつられて口に運んだ。
不思議なことに、背中を人が通っていく気配はするのに、足音やそれらの雑音は全く聞こえようとしない。 面白い…と思いながら、坂崎はギターケースを撫でてみた。
大根には味がよく沁みていた。箸で割った間からはまだ湯気が上がっている。
「…それ」
ちらりと再びギターに目をやったと同時に、店主に話しかけられた。
「えっ」
思わず背筋が伸びる。何か聞き逃したかもしれない。こういう瞬間にはいつも、何かを逃している。
「お客さん、音楽やってるのかい?」
「…ああ、これ?」
「持ち歩いてまで」
相変わらず、特に坂崎の反応を気にしていない態度に彼は安心する。
「ただの、趣味だよ」
ギターケースは二人の目に注目されて、またずずと動いた。
「別に何かしてやろうってわけじゃなくて…ただ趣味がここまで続いただけ」
言い訳のように低く呟いて坂崎は笑った。
「巧いわけでもないしね」
「そうかい」
橙色の灯の中で、彼は眠りそうになった。
おでんのだし汁も、現代に似つかわしくない裸電球の揺れに合わせてうたた寝をしているように見えた。
「その割には」
店主が、空になった皿を下げながら続けた。
「聞いてほしそうだったけどね」
「……」
彼は目を一度見開いて、同じように空になったコップに視線を落とすふりをした。 眼鏡が遅れてついてきた。おでんはやはりゆらゆら揺れていた。
「……」
自分が座っているのに、その椅子は冷たく感じた。坂崎は参ったなと小さく呟いて笑った。 かつて同じように同じものを抱えていた友人たちはどうしているだろうかとふと考えた。
「何にしますか」
どうにもとらえようのない店主の態度に救われた坂崎はぼんやり返事をする。
「…たまご」
「はい」
「ひとつ」
「はいよ」
夜が濃くなっているのがわかった。ギターケースの向こう…店の外の夜が深夜を告げていた。 それでも持ち続けるんだろう、と他人事のように坂崎は思ったが、今度は行きようのない感動はなかった。 ここでこれを開いて、懐かしい曲を一つ弾いてみてもいいと思った。
「はいよ」
「どうも」
また自然と相棒の方へ向かっていた目を戻すと、新しい、少しだけ深い皿に注文が乗っていた。
やさしい湯気がゆらゆら上がり、その元には卵が3つ、どっしりと構えていた。
坂崎は本当に笑った。
もう一度、「参ったな」と言った。
店主は知らないふりでまた煙草に火をつけていた。



(Musician)





「…さっきさ、来る途中で赤提灯見たよ」
ドアを閉めて一番に、坂崎は友人たちに報告した。まだ橙の灯が目の中に残っている気がした。
「楽しそうだったよ。混ざろうかと思っちゃった」
そう言って笑った。すかさず、まーた調子いいこと言って、と合いの手が入る。 続いて、赤提灯もいいけどこっちも、と新しい楽譜が無造作に手渡された。
彼はへいへい、と軽くもなく重くもなく返事をしてそれを爪弾いてみる。
「それ」
「ん?」
どちらがの声かわからなかったが、二人ともこちらを見ていたので 一緒に言ったのかもしれない。
「なに」
「や、べつに」
「あそ」
「よろしく」
桜井が言った。高見沢もそれに続けるように小さく片手を上げて戻っていった。
坂崎はもうその空気の中でなじんでいた。
やわらかい音がぽつぽつと流れ続けた。








"albireo" track02.「Musician」(to be continued...)
text by : Hiroto Kaizaki(from Squall On The Horizon)
image from : 『Musician』(by THE ALFEE)

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